怒らされているのではなく

自分を怒らせるものは一体何だと思いますか?

そう問われたら、多くの方が「特定の誰か」や「あるできごと」を思い浮かべるのではないでしょうか。「あの人はいつも私をイライラさせる」とか「あの一言がなければ、私はここまでキレなかったのに」など。

しかし、私たちを怒らせるものは「誰か」でもなければ「できごと」でもありません。私たちを怒らせているもの。それは、私たちが持つ「こうあるべき」という価値観です。信条、こだわり、と言っても良いかもしれません。

この、私たちの理想、希望、願望、欲求を象徴する言葉「べき」。社はこうあるべき、子どもはこうあるべき、上司はこうあるべき、部下はこうあるべき、父親はこうあるべき、母親はこうあるべき、女はこうあるべき、男はこうあるべき、時間は守るべき、約束は守るべき、など。この「べき」が目の前で裏切れた時、私たちは怒りを覚えます。

私は以前、狭い歩道を2列に並んでおしゃべりしながら、私の前をゆっくり歩く年配の女性にひどく腹を立てたことがありました。「なんで道を塞いでるってことに気づかないんだろう。ホント、ありえない」などと頭の中で(妄想で)相手に向かって罵詈雑言を投げつけていました。そして、苛立った声で「すいません!」と言いながら、軽く肩をぶつけて追い越していました。(怖いですよね…。)

この時の私の「べき」は、「狭い歩道を2列に並んで歩くべきでない」「道を塞ぐべきでない」「後を歩く人に配慮すべき」です。もっと言うと「人に迷惑をかけるべきでない」もありました。私が怒ったのは、これらの「べき」が裏切られたからです。

しかし、今は、同じ状況でも怒りを感じなくなりました。なぜなら「周りが見えないくらい会話が楽しいんだなあ。」と微笑ましく感じられるようになったからです。そして、通る時に「失礼しまーす。通りまーす。」とさらりと言えるようになったからです。

もちろん、「狭い歩道を2列に並んで歩くべきでない」「道を塞ぐべきでない」「前後から来る人に配慮すべき」「人に迷惑をかけるべきでない」は、変わらず持っています。ですから、私自身は、狭い歩道を2列に並んで歩くことはしません。でも、だからと言って、それをしている人を責めることはしなくなりました。その必要はない、その「べき」は妥協できる、と気づいたからです。

妥協できないのは、行く手を阻まれること。私は、その先へ進みたかった。彼女たちを追い越して、その先へ進みたかった。それは絶対に妥協できないので、「通ります(だから避けてください)」とリクエストをしたのです。怒らなくても、肩をぶつけなくても、自分の思い通りに状況を変えることはできる。それがアンガーマネジメントです。

私たちは、つい、怒らされていると思ってしまいます。「あの人のせいで」「ああいうことをされたせいで」と。でも、それは違います。怒らされているのではありません。自分の「べき」が、自分を怒らせている。つまり、自分が「怒る」ということを選択しているのです。

怒らされている=他人や状況に支配されている人生、です。アンガーマネジメントは、怒りに人生を支配されない、自分で怒ると決めて怒ることをめざします。

と、ここで、「ふざけんなよ。どう考えたって、道を塞ぐヤツが悪いに決まってるだろう。なんで、そんな気遣いもできないヤツを微笑ましく思わなきゃいけないんだ。そういう人に迷惑をかけるようなヤツは、きっちり迷惑だと教えてやらなきゃダメだろう。アンガーマネジメントなんかやったら、世の中、迷惑をかける無責任なヤツばかりになるぞ。怒ることも必要じゃないのか!」と、今、お怒りの方もいらっしゃると思います。

良いのです。怒っても。アンガーマネジメントは、怒るな、とは言っていません。間違いだ。そう思うなら、そう言っても構いません。

ただ、それをやって、相手からひどい返り討ちに合う可能性もあります。あるいは、大事な取引先の社員だったとか、ご近所で家族が何かとお世話になっている方だった、ということもあるかもしれません。その様子を誰かに見られていて、ひそかに避けられたり、何かのチャンスを逃すこともあるでしょう。そうでなかったとしても、後になって、あんなに怒らなければ良かったと後悔したり、自己嫌悪に陥ることがあるかもしれません。

もし、そうはなりたくないな、と思ったらアンガーマネジメントに取り組んでください。何か、人生がうまくいかない。そう思ったら、自分の「べき」を見直してみてください。

きっと何かが変わるはずです。良い方向に。